【健康経営研究会 平野治氏コラム 第3回】社会構造が急激に変化する中での健康経営の在り方について
はじめに
新年には大企業のトップがメディアを通じて年頭所感を発表するが、そのキーワードを拾ってみると「人材投資」や「人的資本」という言葉が多く出てきます。
2020年を境に資本としての「人」が注目されるようになりました。
人口減少や高齢化が加速する中で企業の人材確保は最も重要な企業戦略と言っても過言ではないと思われます。
その一方で、AIが多くの企業で使われるようになっており、人とAIの関係が各所で問われるようになってきました。
AIの出現によって、合理化・効率化すべきところは人の力を借りずに対応し、それ以外の人でなくてはできないことに多くの人材が求められているように思います。
その場合、企業が求めているのは人材ではなく「人財」に変わってきています。
いま、多くの企業が取り組んでいる健康経営は「人財価値」を高める戦略として位置づけられています。
その中で、健康経営優良法人認定を取得する意義についても、単なる称号から実践的な企業価値創造としての取り組みへと変わりつつあります。
今回のコラムでは、改めて健康経営における人財価値について考えてみることにします。
Ⅰ 健康経営を起点にした人的資本の変革の動きについて考える
健康経営という概念を筆者が考えたのは今から22年前の2004年のことです。当時健康経営を考えるに当たり、下記のメモを作成しました。
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「企業が解決したい問題とは何か・・・。
社内の身近な問題から社会からの影響など、いろいろ複雑なことが起きている。
何かのやり方を変えないといけないとは思うものの・・・。
日々の仕事でやることが山積み。
そんな状況の中、人に対する健康投資という新しい選択肢はどういったものなのか?
先ずは“ソーシャルイノベーション”の視点から戦略を考えてみてはどうか。
なぜならば、健康は個人よりむしろ社会全体の価値創造を目指すことを考えた方がわかりやすいから。
人を資本とした健康の社会的価値を考えてみる。これらが、今起きている社会課題の解決につながるのではないか・・・。」
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このメモにあるとおり、健康経営は、当時の社会背景の中で企業戦略として考えたものです。正確に言えば、この時点では「健康経営」という名称は付いていませんでした。健康を企業資本と社会資本の両面で捉え、「人という資本をいかに企業経営の中で戦略的に捉えることができるか」といったことを前提に、これまでの企業における労務管理・健康管理だけではない新しい視点で健康を企業戦略として考えたのが健康経営です。その後2007年に「健康経営」と名付け、特定非営利活動法人として健康経営研究会を設立しました。
これまでの企業における「健康」の概念は、従業員の身体の調子や具合を見ながら、働く上で身体に異常がないかを見つけることが中心でした。もちろん、身体の異常を見つけることは大切なことですが、このことだけでは守りの経営であり、人という資本は最大化されません。そこで、健康経営には大きく二つの戦略視点を持つことが大事だと考えました。一つ目は、「働く場の居心地のよさをつくること」、二つ目は、「人と人とのコミュニケーションを心地よいものにすること」です。この二つの視点を戦略として組み立てたものが健康経営であり、ここでいう健康とは、人という資本を最大化する仕組みを前提としたものです。
「働きがい」について考えみましょう
「働きがい」を高めるためには、企業と従業員が同じベクトルを向いていることや、企業と従業員の間の信頼関係が必要であり、従業員の「働きがい」がワークエンゲージメントを高め、企業の生産性向上にとっても大変重要なポイントとなっています。
この健康経営の考え方や取り組みは、社会の中に徐々に普及してきましたが、昨今の急速な社会環境の変化を目の当たりにする中で、「健康経営」という概念もアップデートすべきタイミングがきたと感じるようになりました。その主な理由としては、一つが「人口減少に伴う労働人口減の問題」、もう一つは「産業構造の変化とグローバルアジェンダの存在」です。さらに加えると、web3がもたらす分散化社会も少なからず影響要因になるであろうと考えています。
Ⅱ 消費型社会から循環型社会に移行する中で起きる人的資本の変革
(人的資本の変革Human Capital Transformation (HCXヒックス))
今日の日本は、大きな岐路に立たされているといっても過言ではないでしょう。2008年にピークを迎えた日本の総人口は、2046年には1億人を切ると言われており、特に人口構造の変化が経済に与える影響は大きいものがあります。
これまで日本の産業は工業分野での発展が経済を支えてきましたが、これからの産業におけるイノベーションは、労働人口減少を考慮した産業構造の変革が必要不可欠です。
ハーバード大学のクリステンセン教授が言う破壊的イノベーションを推進するには、ある意味これまでの産業構造をマインドセットすることが求められますが、国の個性ともいえる産業構造を社会状況に合わせて変革するというのは簡単なことではありません。このことが、働き手である人の捉え方にも大きく影響するものと考えられます。これが人的資本の変革が求められると考える一つの要因です。
そして、いま一つの要因は、国連が2015年に制定したSDGsに代表されるグローバルアジェンダの存在です。グローバルアジェンダは、各国が特徴としてきた産業構造に大きな影響を与えるものです。何故ならば、世界が共有するテーマを基盤に自国の産業を再構築することが求められるからです。グローバルアジェンダのテーマは、大きく分けると「カーボンニュートラル」、「再生エネルギー」、「サスティナブルな産業システム」の3つがあり、このテーマを世界が共有し推進していくことが求められています。この意味するところは、産業構造も競争から共創の時代になったと捉えることができます。これに合わせて、産業のサイクルシステムも、SDGsやESGの取り組みと連動して、生産、消費、廃棄から循環、再生、持続の時代に変化する必要があり、今まさに産業構造の転換というパラダイムシフトが起きはじめています。

Ⅲ 労働人口減少とグローバルアジェンダから考える人的資本の変革について
次に、国内の産業・労働市場の現状と変革の観点から見ていくこととします。
日本は中小企業の国と言われており、約380万社ある企業の内99.7%は中小企業が占めています。基幹企業となる大企業の役割をイノベーティブな思考で考えることも当然必要なことですが、日本を支えている中小企業の在り方について考えることは、労働人口が減少する社会において、より優先度が高いと考えています。労働人口が減少することと、それに伴い、地方における中小企業の役割の変化や、産業構造の変化に対応した中小企業の変革が必要になるということです。
具体的には、これまでは「課題解決」をテーマにした発想が中心でしたが、イノベーションの視点でとらえた場合、解決ではなく「変革」をもたらすことが、企業戦略につながります。先述したとおり、これからの社会は「循環、再生、持続」の構造に向かっていることを考えると、これまで多くの中小企業が取り組んできた、製品の向上と生産の効率化といった、「生産、消費、廃棄」という視点からの転換が望まれます。このことを人的資本の視点で考えるならば、労働人口の減少を背景に、企業が固定的に人的資本を保有することが難しくなるという現れでもあります。企業が人財を固定的に確保するという考え方から、人財を流動化して複合的な働き方を可能にする体制づくりが求められ、人財の確保がより深刻となる中小企業が積極的に取り組むべきテーマと言えます。
このことを人的資本の変革の観点で考えるとするならば、一人ひとりが人資本としてのパフォーマンスを多面的に活かす仕組みづくりが必要であり、「関係生産人口」という言葉で表現することができるのではないでしょうか。1人の生産人口を複合化していく「関係生産人口」の考え方をベースに、人資本の適正配置を考える戦略モデルを構築していくことがより求められる時代になってくると考えています。

次に、二つ目の要因であるグローバルアジェンダと企業の存在意義“パーパス”の関係について考えてみたいと思います。
これまでは、企業それぞれで独自の戦略テーマ設定をし、企業は自社のミッションで活動してきました。グローバルアジェンダの登場により、企業経営において注目されるようになったのが、「なぜ(Why)この仕事に取り組むのか」といったパーパスを考える戦略です。この「なぜ(Why)」の主語になるのが社会です。パーパスとは、「社会で共有する目的」のことを指すものであり、例えば、脱炭素(カーボンニュートラル)、再生化、サスティナビリティなど社会で共有する目的の中に自社事業の役割を位置づけ、それぞれの事業体がそれぞれのやり方で社会的目的の実現を目指していくものです。
また、この「パーパス」が生きたものになるためには、従業員一人一人が会社の目指す「パーパス」に併せて、自分の目指したい姿や役割を位置づけていけるかがポイントになります。この実践の方法として、企業の経営層と従業員が「対話」を持つことが有効です。マサチューセッツ工科大学のダニエル教授は、「人と人の関係が良好だと、個々の思考が前向きになり、他者との連携や新たなチャレンジに取り組むなど、ポジティブな行動につながる」と述べています。そのため、「対話」を通じてオープンな関係を構築し、価値意識を共有していくことが、企業のパーパスが実効性を持つものになり、その真価を発揮できます。
これまでの事業の考え方は、自社の利益を最大化することが第一優先でした。この自社利益の追求という戦略テーマは、当たり前と言えば当たり前で、どこの会社も自社の利益を考えて事業活動をしてきたはずです。ところが、SDGsがグローバルアジェンダとして登場して以来、社会利益と自社利益のバランスをとる事業戦略の構築が求められてきています。この両立を目指す経営は一見難しい課題に見えますが、社会の利益創出をマーケティング視点で考えた場合、自社の新規市場開拓としてとらえることができます。そのため、SDGsと併せてESG投資を考える企業も増えてきています。SDGsとESG投資に共通する点は、持続可能な社会づくりというテーマです。循環や再生といった未来志向の戦略キーワードを軸に、「人を最大限に活かす」戦略づくりが求められます。そしてこれらの取り組みが、株式市場から直接評価される時代になりつつあります。人資本化の戦略をどのように打ち出していくかが企業価値となり、人的資本を重視する経営への転換がより求められるようになってきています。
Ⅳ これからの分散化社会における資本戦略としての人的資本の変革
最後に、web3がもたらす分散化社会の影響についても触れておきたいと思います。
2025年問題という言葉を耳にする人は多いかと思いますが、最も大きな変化は「集中化から分散化」に社会は移行し始めているという点です。この背景にあるのは、ネット社会の進化、いわゆるweb3の社会です。インターネットが社会で使われ始めたのは、30年ほど前の1980年代ですが、この当時は、便利な通信システムといった捉え方で普及し始めました。2000年以降は、商用から一般のネットワークとして活用の範囲が広がっていき仕事や暮らしの合理化や効率化をつくってきました。そして、2025年、さらには2030年になると、ブロックチェーンや量子コピューティングシステムが社会で多く使われるようになると考えられます。この環境の変化は、分散化社会を加速させると基盤となることでしょう。

例えば、集中化の時代であれば、情報は集めること(ストレージ)であったものが、分散化になると情報は個人が台帳を持つことになります。人資本といった視点でこのことを考えた場合、より個人が持つポテンシャルを引き出しやすい社会環境になると考えられます。
民間企業が実施した最近の働き方に関する意識調査結果を見てみると、働く目的として、やりがいのある仕事や自己成長を望む声が大きくなっています。さらに、働き方に対する価値意識の変化は、コロナ禍でより加速している傾向があります。また、オンラインを活用したリモートワークが普及し、働く側が働き方や働く場を選びやすくなってきました。そのため、会社が働き方をマネジメントする時代から、個人が働き方をマネジメントする時代に変化し始めています。一つの企業の中で仕事をする終身雇用の時代から、人財としての人が副業・兼業含め、複数の仕事場で働く雇用形態へとさらに社会が変化してくることが想定されます。
このような分散化社会の中で、人的資本の変革を考えるには、人資本の適正配置の視点に加えて、「コミュニティ」という場づくりや「協業」という視点が大きな意味をもってきます。目的・テーマごとに組成される小規模コミュニティとこれらを自由に選択していけるという環境は、人という資本が多面的に働くことを可能にしていきます。このことが働く意義や価値を高め、人資本を最大化するととともに、個人の健康度や幸福度の向上、ひいてはWell-beingの実現にもつながっていきます。
次の時代の、新たな価値創造や競争力の源泉になるのは、人の「意識」「信念」「知識」より生じると考えています。だとすれば、人という「資源」を「資本」へ転換するために、一人ひとりが「無形資産」として持つ、未活用の知恵や異なる知識を引き出すことが重要となります。人を資本とする新たな経営マネジメントは、従来の「管理」から脱して、「価値創造のために人を活かす」といった転換が必要であり、人が仕事場を選ぶ「ジョブ・チョイス」或いは「ワーク・チョイス」といった視点が主流であり、これが人資本を最大化する仕組みとして重要になると考えています。

以上、人資本の変革が求められる背景要因と、分散化時代での人財流動化のお話しをしてきましたが、結論として企業に求められていることは、「社会と付き合うこと」です。このことについて、何だ当たり前のことじゃないか、と思われる方も多いかと思いますが、従来の企業戦略は、自社が属する業界内で競争し成長することが戦略目標でした。これからの社会は、あらゆる面で共創の時代になると考えています。
その背景には、人口構造の変化が主な要因であることは先に述べましたが、この変化を質的視点で考えてみると、また別の側面が見えてきます。それは、労働人口が減少する中でも「人不足と人あまり」が同時に起きる可能性があるという点です。「人不足と人あまり」、これはまったく正反対のことのように見えますが、管理型の仕事はAI(人工知能)やD X(デジタル・トランスフォーメーション)で合理化され働く人は最小限で運営できるようになってきました。逆に高度な先進技術やデザインなどアイディアや感性が求められる仕事は増え人不足となってきています。このような社会状況の中、会社組織のカタチも大きく様変わりしていくでしょう。循環・再生・持続サイクルをベースに、次の時代の人資本の流動化戦略を「人的資本の変革」Human Capital Transformation (HCXヒックス)と捉え、それぞれの企業が持つ個性を生かして戦略を組み立てていくことが分散化時代における企業イノベーション戦略であり、これからの社会に求められる姿だと考えています。
講師紹介
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- 平野治
- 特定非営利活動法人 健康経営研究会 副理事長
- 1988年H2O綜合研究所を設立
資生堂「新業態計画」、東急電鉄「多摩田園都市まちづくりプラン」、エーザイ「認知症潜在市場マーケティング」、ヤクルト本社「ヤクルトレデイ・コミュニティ・チャネル戦略」、九州電力「新事業領域マーケティング」、NHK「マネジメント講座」などの事業マーケティング計画に関わるなかで、2005年にソーシャルマーケティングとして「健康経営」の概念を構築し、2007年、非営利活動法人 健康経営研究会を岡田邦夫氏と設立し、人の健康を会社資本と位置付ける新しいマーケティング・マネジメントの提案を行う。

